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【中日对译】鲁迅《阿Q正传》(一)-初心联盟日语

全部文章 admin 2018-07-04 145 次浏览
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【中日对译】鲁迅《阿Q正传》(一)-初心联盟日语

《藤野先生》
今天【中日对译】栏目继续为大家带来鲁迅先生作品的日译版。译者是井上红梅,译文出自青空文庫。
※由于译文出版时间较早,文中一部分词汇采取了一定的变换。
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。その際、以下の置き換えをおこないました凤隐天下。「彼奴→あいつ 貴郎→あなた 或→ある?あるい(は) 如何なる→いかなる ~戴く→~いただく 一体→いったい ~置→~お 恐らく→おそらく か知ら→かしら 屹度→きっと 位→くらい ~呉れ→くれ 此奴→こいつ 殊更→ことさら 此間→こないだ 此→この ~御覧→~ごらん 偖て→さて ~仕舞う→~しまう ~知れない→~しれない 頗る→すこぶる 折角→せっかく 其(の)→その 大分→だいぶ 沢山→たくさん 只→ただ 忽ち→たちまち ~給え→~たまえ 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと 何処→どこ 迚も→とても 中々→なかなか 筈→はず 只管→ひたすら 程→ほど 正に?将に→まさに 況して→まして 先ず→まず 又、亦→また 未だ→まだ 丸切り→まるきり 丸で→まるで 萬更→まんざら ~見た→~みた 若し→もし ~貰う→~もらう 矢張(り)→やはり 僅に→わずかに」
第一章 序 我要给阿Q做正传,已经不止一两年了。但一面要做,一面又往回想,这足见我不是一个“立言”的人,因为从来不朽之笔,须传不朽之人,于是人以文传,文以人传——究竟谁靠谁传,渐渐的不甚了然起来,而终于归接到传阿Q,仿佛思想里有鬼似的。 然而要做这一篇速朽的文章,才下笔,便感到万分的困难了。第一是文章的名目。孔子曰,“名不正则言不顺”。这原是应该极注意的。传的名目很繁多:列 传,华波波自传,内传,外传,别传,家传,小传……,而可惜都不合。“列传”么,这一篇并非和许多阔人排在“正史”里;“自传”么,我又并非就是阿Q。说是 “外传”,“内传”在那里呢?倘用“内传”,阿Q又决不是神仙。“别传”呢,阿Q实在未曾有大总统上谕宣付国史馆立“本传”——虽说英国正史上并无“博 徒列传”,而文豪迭更司也做过《博徒别传》这一部书,但文豪则可,在我辈却不可。其次是“家传”,则我既不知与阿Q是否同宗,也未曾受他子孙的拜托;或 “小传”,则阿Q又更无别的“大传”了。总而言之,这一篇也便是“本传”,但从我的文章着想,因为文体卑下,是“引车卖浆者流”所用的话,所以不敢僭 称,便从不入三教九流的小说家所谓“闲话休题言归正传”这一句套话里,取出“正传”两个字来,作为名目,即使与古人所撰《书法正传》的“正传”字面上 很相混,也顾不得了。
 わたしは阿Qあキューの正伝を作ろうとしたのは一年や二年のことではなかった。けれども作ろうとしながらまた考えなおした。これを見てもわたしは立言の人でないことが分る。従来不朽の筆は不朽の人を伝えるもので、人は文に依って伝えらる。つまり誰某たれそれは誰某に靠って伝えられるのであるから、次第にハッキリしなくなってくる。そうして阿Qを伝えることになると、思想の上に何か幽霊のようなものがあって結末があやふやになる。 それはそうとこの一篇の朽ち易い文章を作るために、わたしは筆を下すが早いか、いろいろの困難を感じた。第一は文章の名目であった。孔子様の被仰るには「名前が正しくないと話が脱線する」と。これは本来極めて注意すべきことで、伝記の名前は列伝、自伝、内伝、外伝、別伝、家伝、小伝などとずいぶん蒼蝿うるさいほどたくさんあるが、惜しいかな皆合わない。 列伝としてみたらどうだろう。この一篇はいろんな偉い人と共に正史の中に排列すべきものではない。自伝とすればどうだろう。わたしは決して阿Qその物でない。外伝とすれば、内伝が無し、また内伝とすれば阿Qは決して神仙ではない。しからば別伝としたらどうだろう。阿Qは大総統の上諭に依って国史館に宣付せんぷして本伝を立てたことがまだ一度もない。――英国の正史にも博徒列伝というものは決して無いが、文豪ヂッケンスは博徒別伝という本を出した。しかしこれは文豪のやることでわれわれのやることではない。そのほか家伝という言葉もあるが、わたしは阿Qと同じ流れを汲んでいるか、どうかしらん。彼の子孫にお辞儀されたこともない。小伝とすればあるいはいいかもしれないが、阿Qは別に大伝というものがない。煎じ詰めるとこの一篇は本伝というべきものだが、わたしの文章の著想からいうと文体が下卑ていて「車を引いて漿を売る人達」が使う言葉を用いているから、そんな僭越な名目はつかえない。そこで三教九流の数に入らない小説家のいわゆる「閑話休題、言帰正伝」という紋切型の中から「正伝」という二字を取出して名目とした。すなわち古人が撰した書法正伝のそれに、文字の上から見るとはなはだ紛らしいが、もうどうでもいい。
第二,立传的通例,开首大抵该是“某,字某,某地人也”,而我并不知道阿Q姓什么。有一回,他似乎是姓赵,但第二日便模糊了。那是赵太爷的儿子进了秀 才的时候,锣声镗镗的报到村里来,阿Q正喝了两碗黄酒,便手舞足蹈的说,这于他也很光采,因为他和赵太爷原来是本家,细细的排起来他还比秀才长三辈呢。其 时几个旁听人倒也肃然的有些起敬了。那知道第二天,地保便叫阿Q到赵太爷家里去;太爷一见,满脸溅朱,喝道: “阿Q,你这浑小子!你说我是你的本家么?” 阿Q不开口。 赵太爷愈看愈生气了,抢进几步说:“你敢胡说!我怎么会有你这样的本家?你姓赵么?” 阿Q不开口,想往后退了;赵太爷跳过去,给了他一个嘴巴。 “你怎么会姓赵!——你那里配姓赵!” 阿Q并没有抗辩他确凿姓赵,只用手摸着左颊,和地保退出去了;外面又被地保训斥了一番,谢了地保二百文酒钱。知道的人都说阿Q太荒唐,自己去招打;他 大约未必姓赵,即使真姓赵,有赵太爷在这里简溪扮演者,也不该如此胡说的。此后便再没有人提起他的氏族来,所以我终于不知道阿Q究竟什么姓。
第二、伝記を書くには通例、しょっぱなに「何某、あざなは何、どこそこの人也」とするのが当りまえだが、わたしは阿Qの姓が何というか少しも知らない。一度彼は趙と名乗っていたようであったが、それも二日目にはあいまいになった。 それは趙太爺の息子が秀才になった時の事であった。阿Qはちょうど二碗の黄酒を飲み干して足踏み手振りして言った。これで彼も非常な面目を施した、というのは彼と趙太爺はもともと一家の分れで、こまかく穿鑿せんさくすると、彼は秀才よりも目上だと語った。この時そばに聴いていた人達は粛然としていささか敬意を払った。ところが二日目には村役人が阿Qを喚よびに来て趙家に連れて行った。趙太爺は彼を一目見ると顔じゅう真赤にして怒鳴った。 「阿Q! キサマは何とぬかした。お前が乃公おれの御本家か。たわけめ」 阿Qは黙っていた。 趙太爺は見れば見るほど癪に障って二三歩前に押し出し「出鱈目もいい加減にしろ。お前のような奴が一家にあるわけがない。お前の姓は趙というのか」 阿Qは黙って身を後ろに引こうとした時、趙太爺は早くも飛びかかって、ぴしゃりと一つ呉くれた。「お前は、どうして趙という姓がわかった。どこからその姓を分けた」 阿Qは彼が趙姓である確証を弁解もせずに、ただ手を以て左の頬を撫でながら村役人と一緒に退出した。外へ出るとまた村役人から一通りお小言をきいて、二百文の酒手を出して村役人にお詫びをした宠物坟场。この話を聴いた者は皆言った。阿Qは実に出鱈目な奴だ。自分で擲なぐられるようなことを仕出かしたんだ。彼は趙だか何だか知れたもんじゃない。よし本当に趙であっても、趙太爺がここにいる以上は、そんなたわごとを言ってはけしからん。それからというものは彼の名氏を持ち出す者が無くなって、阿Qは遂に何姓であるか、突きとめることが出来なかった。

第三,我又不知道阿Q的名字是怎么写的。他活着的时候,人都叫他阿Quei,死了以后,便没有一个人再叫阿Quei了,那里还会有“著之竹帛”的 事。若论“著之竹帛”,这篇文章要算第一次,所以先遇着了这第一个难关。我曾仔细想:阿Quei,阿桂还是阿贵呢?倘使他号月亭,或者在八月间做过生日缪海梅, 那一定是阿桂了;而他既没有号——也许有号,只是没有人知道他,——又未尝散过生日征文的帖子:写作阿桂,是武断的。又倘使他有一位老兄或令弟叫阿富,那 一定是阿贵了;而他又只是一个人:写作阿贵,也没有佐证的。其余音Quei的偏僻字样,更加凑不上了。先前,我也曾问过赵太爷的儿子茂才先生,谁料博雅 如此公,竟也茫然,但据结论说,是因为陈独秀办了《新青年》提倡洋字,所以国粹沦亡,无可查考了。我的最后的手段,只有托一个同乡去查阿Q犯事的案卷, 八个月之后才有回信,说案卷里并无与阿Quei的声音相近的人。我虽不知道是真没有,还是没有查,然而也再没有别的方法了。生怕注音字母还未通行,只好用 了“洋字”,照英国流行的拼法写他为阿Quei法网伊人,略作阿Q。这近于盲从《新青年》,自己也很抱歉,但茂才公尚且不知,我还有什么好办法呢。
第三、わたしはまた、阿Qの名前をどう書いていいか知らない。彼が生きている間は、人は皆阿 Quei と呼んだ。死んだあとではもう誰一人阿 Quei の噂をする者がないので、どうして「これを竹帛ちくはくに著す」ことが出来よう。「これ竹帛に著す」ことから言えば、この一篇の文章が皮切であるから、まず、第一の難関にぶつかるのである。わたしはつくづく考えてみると、阿 Quei は、阿桂あくいあるいは阿貴あくいかもしれない。もし彼に月亭げっていという号があってあるいは生れた月日が八月の中頃であったなら、それこそ阿桂に違いない麦振鸿。しかし彼には号がない低调术士。――号があったかもしれないが、それを知っている人は無い。――そうして生年月日を書いた手帖などどこにも残っていないのだから、阿桂ときめてしまうのはあんまり乱暴だsgtool。 もしまた彼に一人の兄弟があって阿富あふと名乗っていたら、それこそきっと阿貴に違いない。しかし彼は全くの独り者であってみると、阿貴とすべき左証がない。その他 Quei と発音する文字は皆変槓へんてこな意味が含まれいっそう嵌はまりが悪い。以前わたしは趙太爺の倅せがれの茂才もさい先生に訊いてみたが、あれほど物に詳しい人でも遂に返答が出来なかった。しかし結論から言えば、陳獨秀ちんどくしゅうが雑誌「新青年」を発行して羅馬ローマ字を提唱したので国粋が亡ほろびて考えようが無くなったんだ。そこでわたしの最後の手段はある同郷生に頼んで、阿Q事件の判決文を調べてもらうより外はなかった。そうして一個月たってようやく返辞へんじが来たのを見ると、判決文の中に阿 Quei の音に近い者は決して無いという事だった。わたし自身としては本当にそれが無いということは言えないが、もうこの上は調べようがない。そこで、注音字母では一般に解るまいと思って拠所よんどころなく洋字を用い、英国流行の方法で彼を阿 Quei と書しょし、更に省略して阿Qとした。これは近頃「新青年」に盲従したことで我ながら遺憾に思うが、しかし茂才先生でさえ知らないものを、わたしどもに何のいい智慧が出よう?
第四,是阿Q的籍贯了。倘他姓赵,则据现在好称郡望的老例,可以照《郡名百家姓》上的注解,说是“陇西天水人也”,但可惜这姓是不甚可靠的,因此籍贯也就有些决不定。他虽然多住未庄,然而也常常宿在别处,不能说是未庄人,即使说是“未庄人也”,也仍然有乖史法的。 我所聊以自我安慰的,是还有一个“阿”字非常正确,绝无附会假借的缺点,颇可以就正于通人。至于其余,却都非浅学所能穿凿,只希望有“历史癖与考据癖”的胡适之先生的门人们,将来或者能够寻出许多新端绪来,但是我这《阿Q正传》到那时却又怕早经消灭了。
第四は阿Qの原籍だ。もし彼が趙姓であったなら、現在よく用いらるる郡望まつりの旧例に拠より、郡名百家姓ぐんめいひゃっかせいに書いてある注解通りにすればいい。「隴西天水ろうせいてんすいの人也」といえば済む。しかし惜しいかな、その姓がはなはだ信用が出来ないので、したがって原籍も決定することが出来ない。彼は未荘みそうに住んだことが多いがときどき他処たしょへ住むこともある。もしこれを「未荘の人也」といえばやはり史伝の法則に乖そむく。 わたしが幾分自分で慰められることは、たった一つの阿の字が非常に正確であった。こればかりはこじつけやかこつけではない。誰が見てもかなり正しいものである。その他のことになると学問の低いわたしには何もかも突き止めることが出来ない。ただ一つの希望は「歴史癖と考証好ずき」で有名な胡適之こてきし先生の門人等らが、ひょっとすると将来幾多の新端緒たんしょを尋ね出すかもしれない。しかしその時にはもう阿Q正伝は消滅しているかもしれない。

第一部分 完
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